ラグランジアンの不定性とは
「ところで、ガウスの発散定理の説明でもお話したように、表面項は、の形をしています。そこで、この項をと書き、微小量をとすると、ラグランジアンの微小変換量は、と書くことができます。これから、ラグランジアンの変換の式は次の(2.10)式のようになります」
(2.10)
一宮が首を傾げた。
「ちょっと待って。テキストには『The Lagrangian, therefore must be invariant under (2.9) up to a 4-divergence:』とあるけど、この『up to a 4-divergence』って、どういう意味?」
越野さんは少し間をおいてから答えた。
「『divergence』というのは、ガウスの発散定理の発散(divergence)という言葉からも分かるように、『ベクトル場の発散』を意味するのだと思います。また、その前の『4』という数字は、4次元の時空間のベクトル、すなわち『4元ベクトル』を表すのだと思います。つまり、この文章は、(2.10)式のラグランジアンの4次元時空間のベクトル場の発散項、すなわち表面項を自由に変換しても、ラグランジアンが不変だということを言っているのだと思います」
「でも、ちょっとおかしくない? この文章って」
「いったい全体、何がおかしいんだ?」
一宮は、俺のほうに向き直った。
「だって、このテキストには、『ラグランジアンが不変でなければならない(The Lagrangian, ~ must be invariant)』て書いているけど、さっきの説明だと、表面項の変換によって不変に保たれるのは、オイラー・ラグランジュ方程式(2.3)であって、ラグランジアンそのものが不変になるわけじゃないわけでしょ?」
越野さんは戸惑いを隠しきれないような顔をした。お前の姑みたいな質問のおかげで、また越野さんが困っているじゃないか!
一宮は、これまでたまりにたまっていた鬱憤を晴らすかのようにまくしたてた。
「大体、ラグランジアンの変換をしているのに、『ラグランジアンが不変』だなんて、普通、自分で文章を書いていて、おかしいことくらい気づくでしょ? こんな矛盾にあふれた文章を書くなんて、この著者、ちょっとナニがアレじゃないの?」
一宮が歯に衣を着せぬ物言いでまくしたてると、石原が言葉を返した。
「一宮さん。いくらなんでもそれは言い過ぎだと思いますよ。この著者はたしか、ハーバード大学を卒業しているはずです。天下のハーバード大学を卒業したエリート物理学者がそんなつまらないミスをするわけがないでしょう」
石原の言うことは正論だ。世界的な権威である場の量子論のテキストに、女子高生が物言うなど、百万年早い。
一宮は悔しそうに頬をふくらませた。
「それじゃ、私の言うことよりも、この著者のほうが正しいっていうわけ?」
「当然です」
一宮を除く俺たち4人は、まるで申し合わせたように一斉に頷いた。
「あんたたちって、ほんと権威に弱いのね! それでもSS(スーパー・サイエンス)団の団員なわけ? そもそも、権威に立ち向かうのが、私たちSS団のモットーでしょ?」
いつからそんなモットーが決まったんだ?
そもそも、そこらへんの女子高生と、ハーバード大学を卒業した世界的な教授と、どちらが正しいかと言われれば、常識的に考えて、ハーバード大卒の教授に決まっているだろ? それがコモンセンス、『世間様』というものだ。
たかだか、一介の女子高生の分際で、ハーバード大学を卒業した教授を上から目線で批評するなんて、世界広しといえども、お前くらいじゃないのか、一宮よ。お前は、いつからそんなに偉くなったんだ?
「これは私の推測ですが……」
ともすれば嫌悪になりかねない雰囲気の中、越野さんが恐る恐るいった。
「この著者はたぶん、の変換に対して、ラグランジアンが『不定性』があると、言いたいのではないでしょうか?」
「不定性?」
「ラグランジアンの不定性とは、ラグランジアンがの任意性をもっているため、一意的に定まらないことをいいます」
「実際、似たような不定性が、電磁場の4元ポテンシャルにも見られます。電磁場の場合、与えられた電磁場を表す4元ポテンシャルも一意的ではなく、を任意関数として、次の形をとることも許されます」
「このような変換は『電磁場のゲージ変換』と呼ばれ、この変換に対して電磁場は不変に保たれます」
電磁場のゲージ変換に対して、電磁場は不変に保たれる
「この著者は、このようなラグランジアンの不定性を『The Lagrangian, ~ must be invariant』と表現しているのではないでしょうか」