ファインマン・ダイアグラム
図1.1
散乱の微分断面積:
「上の式から、Mの値が分かれば、散乱の確率を知ることができます」
「Mはどんな値なの?」
「それは難しい問題ですね。残念ながらMの正確な値は分かりません」
「それじゃダメじゃないの」
一宮が詰問するように言う。
「そんなこと僕にいわれても、こればかりはどうしようもありません」
お手上げといったように石原は肩をすくめた。
そのとき、部屋の隅のほうで、ぱたんと音がした。音のした方向を見ると、武者さんが本を閉じて椅子から立ち上がるところだった。俺たちが注視する中、武者さんは黙って、俺たちのいる場所へ向かってきた。
「どうしたんですか、武者さん?」
石原が訊ねる。
「ペン」
無表情のまま、片手を差し出した武者さんに、石原はあわててマーカーペンを手渡した。
俺たちが見守る中、武者さんは、ホワイトボードになにやら図を描き込んだ。それは4つの直線と1つの波線からなる奇妙な図だった。
Fig.1.2
「なによこれ?」
「ファインマン・ダイアグラム」
透き通るような声で武者さんが言った。
「ファインマン・ダイアグラム?」
「リチャード・ファインマンが考えた図だから、ファインマン・ダイアグラム」
「ファインマンって誰よ?」
「ご冗談でしょう、一宮さん。ファインマンは有名なアメリカの物理学者ですよ」
石原が橫からフォローする。
「リチャード・ファインマンは、量子電磁気学の研究により、シュウィンガー博士、日本の朝永振一郎博士とともにノーベル物理学賞を共同受賞した物理学者です。カリフォルニア工科大学の講義内容をもとにした教科書『ファインマン物理学』や『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などの著作でも知られています」
「そんな人知らないわ」
一宮は臆面もなく言った。
「で、そのファインマン・ダイアグラムと散乱問題と何の関係があるのよ」
「ファインマン・ダイアグラムは、散乱過程における電子と光子の流れを示すもので、そのもっとも簡単なものが上の図」
武者さんが説明を始めた。
「このダイアグラムは、3種類の要素からなる。1つ目の要素は、入射粒子と出射粒子をあらわす4つの外線(external lines)。2つ目の要素は、『仮想』粒子—ここでは1個の仮想光子—をあらわす内線(internal lines)。3つ目の要素は、頂点(vertices)」
そういって武者さんは、図に説明を付け加えた。
Fig.1.2
「通常、電子やミュー粒子のようなフェルミ粒子は直線を用い、光子は波線を用いてあらわす。また、直線上の矢印は、運動量ではなく負電荷の流れをあらわす。ここで、内線の運動量は、それぞれの頂点における運動量の保存則によって決定されるため、の関係が成り立つ。以上がファインマン・ダイアグラムの簡単な説明」
武者さんの解説は、相変わらず簡潔極まりない。あまりに簡潔すぎて、ときどきコンピュータが話しているんじゃないかと錯覚することがある。透き通るような白い肌と美しい瞳の中の奥に宿る人工知能。『歩くスーパーコンピュータ』。学校では、武者さんをそのように呼ぶ生徒もいるらしい。