スーパーサイエンスガール

日々科学と格闘する理系高校生達の超絶難解な日常。

ブラケット記法とは

 俺が一宮の巧妙な罠にはめられて絶望していると、「ちわーす!」という間の抜けたような声とともに、石原が部屋に入ってきた。

 石原剣璽(いしはら・けんじ)は、俺と同じ高校一年生で、一見にこやかな顔つきをした優男だが、その実、食えない男だ。授業をサボることはしょっちゅうで、たまに授業に出たかと思うと、授業も聞かずに退屈そうにスマホをいじくってニ●ニ●動画を見ていたりするようないい加減な奴だ。テストの前日もまるで緊張感なく、一宮と終日格ゲーをしてのんびりと過ごしていたりするが、その割になぜか学年でもトップクラスの成績を維持している。石原いわく『テストはヤマカンと要領がすべてですよ』とのことらしい。背が高く、ちょっとしたイケメンで、女子にも結構モテるが、女子には興味が無いのか、特定の誰かとつき合っているといった噂はない。石原とのつきあいも長いが、何を考えているのか、いまだによく分からないミステリアスな男だ。

 石原は、部屋に入るなり数式と図形がびっしり描かれたホワイトボードを見ていった。
「おや、みなさん、何をしてらっしゃるんですか?」
「見れば分かるだろ? 超絶難解な問題を解いている最中だ」
 そういって俺は問題のほうに顎をしゃくってみせた。

図1.1
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超絶難解な問題1:以下の式を導け。ただし、 d\sigma微分断面積、 d\Omega:立体角とする。

{ \displaystyle
\frac{d\sigma}{d\Omega}=\frac{1}{64\pi^2E_{\rm cm}^2}\cdot|M|^2
}

「超絶難解な問題? なるほど、微分散乱断面積を求める問題ですか」
 目を細めてひとり得心したように頷く石原。その口元は楽しそうな笑みを浮かべていた。

 すると何を思ったのか、一宮が挑発するように言った。
「ねえ、石原君。この問題解ける?」
「この問題をですか? まあ、解けなくはないですけど……」
「それなら、ちょっと解いてみてくれない?」
「え、僕がですか?」
 石原は驚いた顔で一宮を見返した。

「この問題を解くことができたら、いいものをあげるわ!」
「いいもの?」
「そう! 私の愛のこもった贈り物!」
 一宮は、唇に人差し指を当てて、特に『愛』の部分を強調するように言った。
「一宮さんの愛のこもった贈り物? 本当ですか?」
 一宮にのせられて、石原はすっかりその気になったようだ。下心が見え見えだぞ、このスケベ男が!

 とはいえ、俺は内心ほっとした。そもそもの原因が俺自身であるとはいえ、危うくアメリカの大学院レベルの問題を解かされる過酷きわまりない義務から解放されたのだ。俺は、一宮から再び指名されないように、武者さんがいる隅の場所へとこっそり退避した。


「それでは始めましょうか」
 一宮と越野さん、そして部屋の隅でディラック量子力学を一心不乱に読んでいる武者さんとその横にいる俺の4人を相手に、石原は慇懃に一礼した。

「この問題は2粒子状態の散乱問題なので、最初に、2粒子状態の散乱の始状態 \mid i\,\rangleと終状態 \mid f\,\rangleを考えてみましょう」
 そういって石原は、ホワイトボードに数式を書き込んだ。

始状態: \mid i\,\rangle=a_{\bf k}^{\dagger}a_{-\bf k}^{\dagger}\mid 0\,\rangle
終状態: \mid f\,\rangle=b_{\bf p}^{\dagger}b_{-\bf p}^{\dagger}\mid 0\,\rangle

「なによこれ?」
 数式を見て、一宮がぶっきらぼうに言った。
「おや? 一宮さんは、『ブラケット記法』は初めてですか?」
 石原は、意外そうに眉を上げてみせた。
「ブラケット記法?」

「ブラケット(braket)記法は、量子力学において、量子状態をあらわす記法のことです。イギリスの理論物理学者であるP・A・Mディラックが考案しました。量子力学を理解するのに、ブラケットの理解は避けて通れません」

ブラケット記法:量子状態をあらわす記法