ロシアの積分公式集
相対論的な粒子の確率振幅U(t)
「上式では、運動量pについての積分が残されていますが、このテキストによれば、これはベッセル(Bessel)関数の観点から明確に評価できるとのことです」
「ベッセル関数って何よ?」
一宮の質問に、越野さんは少し表情を曇らせた。
「申し訳ありません。ベッセル関数について、手持ちの『岩波 数学公式』の特殊函数を一通り調べてみたんですが、上の積分に関連するベッセル関数の公式はどこにも載っていませんでした」
越野さんは、そばに置いてあった鞄の中から岩波の数学公式集をとりだした。
- 作者: 森口繁一,一松信,宇田川〓久
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1987/03/13
- メディア: 単行本
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一介の女子高生が、なんで『岩波 数学公式 特殊函数』のようなマニアックな本を持ち歩いているんだ?
「公式集にも載っていないって、それじゃ、結局何も分からないじゃないの!」
「すみません。私の力不足です」
一宮の叱責に、越野さんは力なくうなだれた。
「ほんと、肝心なときに、役に立たないんだから」
一宮の無遠慮な言葉に、越野さんは唇を噛みしめ、泣きそうになるのを必死で堪えているようだった。
そんな越野さんの健気な姿を見て、俺は黙らずにはいられなかった。
「おい。もうそれくらいでいいだろ。岩波の数学公式集にも載っていないようなマイナーな式なんだ。これ以上調べても仕方がないだろ。越野さんも一生懸命調べてくれたんだし」
俺が越野さんをかばうと、一宮はにらみ返してきた。
「そこまで言うのなら、あんたが調べなさいよ!」
「それは……」
俺は言葉を詰まらせた。悔しいが、岩波の数学公式集にも載っていないようなマイナーな特殊函数を見つけるほどの能力は、今の俺にはない。
「何よ、結局、口だけじゃないの」
何も答えられない俺を見て、一宮が勝ち誇ったような顔をした。悔しさと怒りで、俺は拳を強く握りしめた。こいつが男なら、その場でぶん殴ってやるんだが。
そのとき、武者さんが何を思ったのか、突然立ち上がった。
「どうしたんですか? 武者さん」
石原の言葉をよそに、武者さんはそのまま黙って書棚のほうまで歩いていき、棚の1つから藍色の表紙の1冊の洋書を取り出した。
「なんだその本は?」
武者さんは、本の表紙を俺たちに向けた。
「『TABLE OF INTEGRALS, SERIES, AND PRODUCTS SEVENTH EDITHION』 ロシア(旧ソ連)の数学者 I. S. GRADSHTEYNとI. M. RYZHIKの共著による積分表」
武者さんが本を机の上に置くと、ドスンと大きな音を立てて、本に付着していた埃が一斉に飛び散った。俺たちは咳き込みながら、それ以上埃を吸い込まないように慌てて部屋の窓を開け、埃を追い払った。
SS団の根城になっているこの部屋の書棚には、誰が読んでいるのか分からないような数学や物理学の洋書や論文がたくさん収納されている。その中には、今では絶版になって入手困難なものもいくつかあるようだ。俺自身、じっくり調べてみたわけではないが、たぶんそこらへんの大学の研究室の蔵書よりかは、よほど充実しているにちがいない。
「この本の項目3.194には、490頁から491頁にかけて10個の積分公式が列挙されている」
武者さんは、ベテランの銀行員が札束を数えるような熟練した手つきで素早く頁をめくり、1秒とたたずに該当する頁を開いた。
「この6番目の式がそう」
そういって武者さんは1つの公式を指さした。
「この公式を用いれば、答えが導けそうですね」
越野さんの顔がぱっと明るくなった。
「実際、この公式で、と置き、項の順序を適当に入れ替えると、次の式が導ける」
武者さんは越野さんからマーカーペンを受け取ると、ホワイトボードに式を書きこんだ。
「この関係式を用いれば、相対論的な粒子の確率振幅U(t)は、ベッセル関数を用いて次のように書ける」