空間的な伝搬粒子のクライン‐ゴルドン場の振幅の導出5
反射的に後ろを振り向くと、俺の目と鼻の先に一人の小柄な少女が立っていた。
武者さんだった。
彼女が小脇に抱えているのがディラックの「量子力學」でなく、暗殺用の短剣なら、俺は彼女の気配に気づくこともなく死んでいただろう。
恐るべきステルス能力に、俺は心の底から恐怖を感じた。
「ノー・プロブレムって、どういうこと? 大和」
一宮の問いかけに、武者さんはホワイトボードの前まで歩いて行ってマーカーペンを手にとった。
「論より証拠。実際に、積分変数を置換してを計算してみれば分かる」
俺たちが見つめる中、武者さんは黙って計算を始めた。
「上の式でと置くと、から、、となる。これらの関係を用いると、上のの式は次のようになる」
「あれ、分母の値が打ち消し合ってなくなりましたね」
石原が感心したように呟いた。
「ここまでくれば、あとは通常の積分計算をすれば機械的に解ける」
武者さんは頷いて、マーカーペンをもつ手を素早く動かした。
「最後の行で、指数関数およびの極限において、指数関数からの寄与に比べて、からの寄与が無視できることを用いた」
「どうしてからの寄与が無視できるのよ?」
「これは、をマクローリン展開してみればわかる」
「上の式を見ると、の極限ではの累乗が効いてくる分、からの寄与のほうがからの寄与よりも大きいことがわかる。結局、次の(2.52)式が成り立つことがわかる」
(2.52)
「以上、計算終わり」
計算式の末尾に『q.e.d.(証明終了)』と殴り書きすると、武者さんは元の席へと戻っていった。
「ちょっと! それじゃ、この積分計算って、と置換するだけで、通常の積分計算と全く同じように解けるってわけ? だったら、分岐とか特異点とか、テキストの『we push the contour up to wap around the upper branch cut(上の分岐のまわりを覆うように積分経路を押し上げる)』という、これまでの議論は、一体何だったのよ! そもそも、コーシーの積分定理なんて全く使わずに解けるじゃないの!」
一宮が顔を真っ赤にして叫び声を上げた。
「ハーバード大学卒の教授にしては、詰めが甘いわよ!」